「歩いても 歩いても」考


樹木希林演じる、お母さんの「残酷さ」が


ぼっこりそこだけ切り離されたみたいに、


強い意気込みで演じられていたこと、


演出されていたことが


のどの小骨のようにひっかかっている。



残酷さ、は日常と切り離されたものであるはずがない。


日々のなかに、なめらかに「経験」はある。


その先の「思い」には、そうとしか自らを生かしてゆけない


当たり前の「残酷さ」がある。


本人が「残酷さ」を二面性として意識し、自らの在り方に加えていたら、


相当うさんくさいことだ。


(自警の念。)



「裏と表」みたいに、「光と影」みたいに、二面性として描くのは、


(是枝監督の描き方は、それでも自然な感情を


やさしめに観察する人の意思を感じたけど)


外から見た人の臆病さではないか。


残酷さ、受容・優しさ、


そこに溝があるはずはない。


本人にとっては、まったく同レベルの感情のつらなりだ。


と私は、今の自分に照らしあわせて思う。



私のこの感情が、

ただ言い訳しようとしているのかもしれないこの「当たり前の残酷さ」が、

それほど強い狂気でないことを祈りつつ。



夏のまぶしい光。


コットンのシャツ。


家族ゆえの不器用さ、


人の命を背負って生きなければならない、その重さ。


間に合わなかった、という思い。


「母」の人が、「息子」の少年の肩を


ごく自然に抱き寄せる、


その幾層にもかさなる温かみ。


ひっかかりもふくめて、意味深い映画だった。